旅日記 還暦親父の諸国漫遊記

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ロックオン奮闘記2-尾崎豊Birthツアーで再発見出来たもの-

トミー青年の突っ張り奮闘記?読んでくれました。

まだ読んでいない人はぜひチェックしてみて…

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さて今回はものすごいツアーを経験させてもらったことを自分の記録としても書かせてもらおうと思います。

彼の訃報を聞いて四半世紀が過ぎた現在でもトミー爺の記憶には鮮明に映像が流れてくる、、そろそろ自分の気持ちと体験を書き残しておきたくなったので紹介させてもらいますね。

 

この記事の内容は

 

それは西本くんの「トミー相談があるんだけど…」から始まった

トミー青年が西本くんが仕事をしている都内のスタジオに行った時、西本くんから

「トミー相談があるんだけど…」と、、この一言からあの伝説のツアーが始まったのかもしれない…


その内容は

「実は尾崎くんから電話が来て、全国ツアーをするんだけど手伝ってほしい…と言われた、、、どうしたら良いと思う?」

 

尾崎くんというのは尾崎豊さんの事で、その彼が全国ツアーを計画していて、そのバンドマスター(バンマス)として西本くんに手伝ってほしい…ということらしい…


ただ、西本くんはプロデューサーとして活動する為に、佐野さん(佐野元春さん)のバンドを休んでいる時に尾崎さんからのオファー、、ここは難しい選択だよね…

 

トミー 「そうか、、アキラは(西本くんの事)どうしたいの?」

西本くん「いい時期だし、やっても良いかな…と思っている」

トミー 「俺もそう思う、、だったらそうしようよ…」

 

確かこんな会話をした記憶が…

 

当時、尾崎さんは2枚組のアルバム「Birth」をリリースして、そのアルバムを引っ提げて全国ツアーを計画していた。

 

「Birth」ツアーの準備が始まる…まずは尾崎さんと名刺交換?

尾崎さんのマネージメントにトミーから連絡をして、早速、会社のスタッフさんと打ち合わせが始る、、、そしてあの伝説のツアー「Birthツアー」が動き出した。

 

まずは顔合わせという事で都内にある尾崎さんの事務所に西本くん、トミー、ソニーのプロデューサー須藤さん、尾崎さんの会社の副社長、そして尾崎さん本人が集合。

 

早速、尾崎さんと名刺交換することに

「初めまして西本くんのマネージメントの染川です」

「尾崎です、、トミーさんっていうんですね、笑い」


あの尾崎さんと普通に名刺交換するって笑えるでしょう…この時に交換した名刺はいまも大事に保管してあるけどね…

 

バンドメンバーを決めないと…結構すごいメンバーが集まった

尾崎さんは今回のツアー、こんな感じにしたい…と構想を熱く語ってくれた、、そしてみんなでバンドメンバー選択の話に…

 

尾崎さんからトミーと西本くんに「Birth」のCDが手渡され、そのCDを聴いてから具体的にバンド編成の確認とメンバー選びがスタートする事に、、、

 

尾崎さんの事務所を出て、西本くんと別れた帰り道、もらったCDを車の中で聴いてみた。

「えーカッコよい…!」


飽きれるでしょ、、実はトミー、尾崎さんの名前は知っているけど音楽は聴いたことが無かったんです、、それが初めて聞いた音がカッコよくて、、あとで西本くんに電話して「アキラ、尾崎くんっていいね、かっこいい!」って寝ぼけた事を言っていた、、我ながら何なんだお前は!って感じ、、笑い。

もっと間抜けなことを言うと、ある日FMから尾崎さんの「卒業」が流れてきて、このアレンジ誰だろう、、まさかアキラじゃないよな…すみません西本くんのアレンジでした。後でアキラに言ったら殴られそうになった、、笑い。

ちなみに西本くんは尾崎さんのCD3枚の殆どのアレンジをやっている人だった、、もちろん「I Love You」のアレンジもピアノも西本くん、、すごいよね!フー知らないって恐ろしい、、今だから言えることだけどね、、、笑い。

 

そして集まったBirthツアーバンドの面々が下記

THE BIRTH TOUR BAND

尾崎豊 - ボーカル、ギター、ピアノ
・西本明 - キーボード、バンマス
・長田進 - ギター
・鈴川真樹 - ギター
・渡辺茂 - ベース
・滝本季延 - ドラムス
・里村美和 - パーカッション
・関誠一郎 - サクソフォーン、キーボード
・岩本章江 - コーラス
・山根栄子 - コーラス

 

リハ初日はあの曲からスタート、トミー衝撃を受けるの巻き

そして3月くらいだったかな…都内某スタジオに全員集合、リハーサルがスタートした。

 

本当に尾崎さんの曲は殆ど聞いたことが無いトミー青年、彼のファンの人に言ったら羨ましがられるかも知れないけどリハーサルで生演奏を聴きながら尾崎ワールドに引きづりこまれた感じ、、、笑い。

 

今でも覚えています、、あのリハ初日の事。

舞台監督が「尾崎さんどの曲から行きますか?」という問いに尾崎さんは

「セブンティーンマップにしましょう」と言った、、

トミーは「セブンティーンマップ???」なんせ聞いたことが無いんだからしょうがない…

 

そして始まったとたん、唖然とした、、そこには本番と同じパフォーマンスする尾崎さんがいて、めっちゃカッコよかった!

 

この調子で「卒業」「シェリー」「I Love You」「太陽の破片」などあの名曲たちをリハーサルで聞いて好きになっていった、、

 

ツアー初日横浜アリーナ、一曲目「Fire」を聴いたとたんにぶっ飛んだ

そして初日の横浜アリーナ公演がスタート。

会場が暗転になり、SEがなり始める、、会場からはなんとも言えないお客さんのうめき声のようなものが聞こえてくる、、そしてFireのイントロシーケンスが始まり、尾崎さんが登場「Fire」タイトルコールで演奏が始まった。本当に鳥肌もの、全身の血が湧き上がる感じの衝撃を受けた。

www.youtube.com

これは最終公演の代々木体育館の映像(kotikamedesuさんのYoutube映像をから)

日本のバンドでここまでエンターテインメントしているバンドって過去にも未来にも唯一のバンドだと勝手に思っている、、本当にすごい!

6万個の目線を一身に受けて跳ね返せるこのパワーって

実はこのライブってハプニング続きですごかったんですよ、それも尾崎さん本人が巻き起こすハプニングだから面白い。

 

我々スタッフは全体の流れを把握しているので、この曲の後はこれで…ああなって、、と分かっていながらライブを見ているのだけど、突然

「あッ!マイク投げた、、昇った、、」

「フリーズムーン」だったかな???尾崎さん一番を歌い終わったらマイクを舞台袖に向かって投げたんです。

 

それを見ていたローディが辛うじてキャッチ、そしたら尾崎さんがタワーを昇り始め、そのマイクを持って舞台監督が二人、尾崎さんを追いかけて昇っていく、多分それを見ていた尾崎さんは当然マイクをもって来ていると信じているから、ちょっと昇るスピードを緩め、そして頂上に着いたらマイクを持った舞台監督が本人にマイクを渡す。

その間バンドは様子を見ながら間奏部分を繰り返し演奏続けていて、それを見た尾崎さんはタワーの上で演奏をストップするように合図、そうしたらバンドは演奏をストップ。

 

そして語り始める、、それに合わせて西本くんが即興でピアノで答える。

バンドメンバーはタワー上の尾崎さんの一挙一動を真剣に見つけているのが分かる…

 

そして手で来い!って合図するとまた演奏をスタートする。こんなやばいコンサートは生まれて初めて体感させてもらった。

 

それと「Birth」という曲だったかな、地方公演でいきなり尾崎さんがギター弾き語りで演奏始めた、、

実はこの曲は最初ドラムのカウントでバンド演奏で始まる曲、でも本人が歌いだしたのでバンドメンバーはそれに合わせるしかない…めいめいが途中から合流始める、、これもすごいでしょ、、

もっとすごいのは尾崎さんはきっとこのバンドだったら着いてきてくれる…と見越していたんだと思う、一番を歌い終わって、ちょっとだけ間を作り、そして「1234」のカウントを突然叫ぶ、そしたらバンドがイントロから演奏始めた、、

これって打ち合わせなしでいきなり、、鳥肌物ですよね、、この曲は後にカラオケにギターイントロバージョンとして入っていると聞いたとき大笑いしたことを覚えている。

 

あと太陽の破片という曲の最後でボーカルだけになる所があり、そして囁くように歌うところがあって、そこは尾崎さん一人に6万個の目が尾崎さん一人の息使いに注がれる、そんな重圧を一人で背負え押し返すパワーってすごいですよね。

 

本当に底知れぬエネルギーをもらえたツアーだった。

そしてトミー青年のその後の音楽人生にも大きな影響を与えてくれたツアーだった。

 

それから尾崎さんとは最後のアルバム制作でも西本くんが半分担当になったのでお付き合いさせてもらった…

 

物凄いパフォーマーですよ尾崎さんは。

 

 

 

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トミー爺の還暦いろいろ旅 徒然なるままに

社長の片腕、トミーのロックオン奮闘記、その1

トミーのジェットコースター人生、ロックオンに入社したはいいけど全くの素人がどうやって信頼を勝ち取っていったか?

 

そんな話をしてみたいと思います。

 

この記事の内容は

突っ張ることがトミーの、、♪たった一つの勲章♪

とにかく経験が少ない素人がいきなりトップクラスの人と仕事をするには、どうしたら良いのか?

 

「見栄張って突っ張るしかないっしょ、、」笑い

まずは身内からの信頼を勝ち取らないとまずかったので、最初にしたことはスタジオの電話番号を全部覚えました…

当時は携帯電話なんて世の中に存在していなかった時代で、電話は会社の電話か?又は公衆電話でかけるしかなかったし、とにかくスタジオに電話することが多かった。

自分で早引きできる電話帳を作っておいて、OTさん(社長)が「音響1stって、、」言ったとたんに「〇〇ー〇〇〇〇…」みたいに教える、当時毎日車移動だったのでスタジオへの道順、都内の道路は頭の中に叩き込んだ。それを続けていくことで段々「トミーやるな…」と思われるようになっていった、、はずmm、、多分、、笑い。

こうやって地味だけど必死に自己アピールを続けて行くことに、、

 

小心者だけどスタジオでは主のような雰囲気をかもし出す

トミーは実は極度の小心者、ビビり。

そんな奴がトップミュージシャンがいるスタジオで仕事をする為には突っ張るしかないでしょう…

ただ、肝っ玉とは反対にトミーの雰囲気はどうやら貫禄があるように見えるらしい…だから実際はビビりながらもどっしりと構えていられた…笑い。

それも強みの一つかな?

 

よくあるでしょ、、借りてきた猫って感じの時、、それを持ち前の派手な顔と少し貫禄ついてきた体系でカバーしたって感じでしょうか?

負け続けていた20代の知識が今になって役立つ時が来た…

本当に神様は未来の為に色々と経験を積ませてくれていたんだな…以前も書いた通り、本当に20代は何をやっても上手くいかず、中途半端だったトミー爺だけど、ここで逆反り大逆転、、ついに来ました!!

それはヤマハ時代に覚えたスタジオの知識、舞台の知識がここで役に立ったんです。

当時スタジオってリズムがRECできる大きさ、ダビング用のスタジオ、フルオケが録れるスタジオ、、と色んな大きさがあったり、もっとめんどくさいのがマルチテープレコーダー(略してテレコ)。

当時ソニーの3324と言われるデジタルの24トラックあるテレコが主流だったけど、もう一つ三菱の32chのテレコも使われていた。

だからレコーディングするときはソニーか三菱のテレコを選ぶ必要があり、ソニーでリズムRECしたプロジェクトは三菱のテレコでは仕事ができない…そこを把握して調整する必要があった。

あとレコーディングの流れもヤマハ時代に経験しているので全く物おじせずに中心になって動く事が出来た、役に立つもんですね、、

またある時、確か氷室さんのツアーの時だったかな?当時西平くんがツアーに参加するという事で、ここでも若いころの舞台の知識が役に立つ…ある日、氷室さんのマネージャーさんと舞台監督、PAさんが来て「トミーさん、今度のライブの舞台図ですが、この位置に西平さんの楽器って乗り切りますか?」と図面を見せてくれた、普通だったら訳わからないのが当たり前だけど、新人マネージャーのトミーは図面をみて、、

 

「あー尺上がりなんだ、サイズは6、9ね、、、大丈夫ですよ、ただ動いても大丈夫なように天板と足場の補強よろしく」、、当時西平くんはキーボードを弾きながら派手に動いていたので…

またPAさんとの打ち合わせでも

「トミーさん西平さん回りで何回線必要ですか?」

「キーボードミックス使っているのでラインアウト、LRからツーミックスで送りますからそこからとってください」

 

みたいに答えられた、、周りは「何こいつ、、なんでこんなに詳しいの?」と思ったと思う、本当に無駄な経験って無いんだな…とこの時につくづく思いましたよ。

 

同時に5~6個の案件が同時進行、脳みそのコイルが焼き切れそう

先ほど書いた通り西平くん、西本くん、Tsukasaくん、プラス作曲の水島くんや作詞の佐藤ありすさん(chu chu trainの作詞担当の作詞家)さんが加わって大変だった。

西平くんや西本くん、二人とも同時に2~3プロジェクト同時進行しているし、作曲家二人、作詞家一人でしょ、、それがフル稼働しているんだから脳みそがシュート、、でなく「ショートしそう」になる日々だった、笑い。

 

それに当時はリゾートスタジオ、河口湖や山中湖にあるスタジオで長期で泊りがけでレコーディングが流行っていて、、泊まり込みで集中してレコーディングできるからプロジェクトの追い上げ時期に結構利用していた、、だからトミー爺もそんなところにも顔出さないといけない。

 

今だったらオンラインで、、携帯で、、みたいに処理できるのに、あの当時は人が動かないとダメな時代でした。

リゾートスタジオに行く時は、昼から都内のスタジオに行ったりして調整事を片付けて、夕方にリゾートスタジオに向かう…そうすると夕食時にスタジオに入る事ができ、そこで打ち合わせや調整事をして夜にまた都内に戻ってくる…そんな生活が当たり前に繰り返されて行った。

自分の言葉で表現する事で居場所を確保できる事に気がつく

それとスタジオでミュージシャンたちの演奏を聴いている時も頭の中はフル回転。

というのも演奏終了したミュージシャンたちはプレイバックで演奏の確認の為にスタジオに戻ってくる…その時に思いっきり試されるんです。

「トミー、今の演奏どうだった?」ってね…


だから演奏を聴きながら自分の言葉で答えられるように常に触覚を研ぎ澄ませないと、「なんだこいつはダメじゃん、こいつに聞いても無駄だな、、」なんてレッテル貼られてしまうのでここも突っ張った。

「なんか身体が熱くなる演奏だったね、、俺は好きだけど…」


みたいに自分の言葉で返すと、そこはトミーの考え方なので間違いはない、その後の人生いつも自分の言葉、表現をできるように訓練できたのもこの経験があってだと思う。


なにせ相手は超一流の音楽家だから素人トミーが勝てるわけない…だけど真向勝負を挑むのではなく自分の言葉で自分の感想を言ったらそれは間違いではない…そしてミュージシャンからは「こいつ面白い事いうな…」と思われて、それ以降も意見を求められることも増えた気がする。

 

やっぱ自分だけの言葉って力があるんですね

崖っぷちに立った時と相手の立場に立ってみると見えるものがある

そしてもう一つ経験できたのは「崖っぷちに立たされた時の考え方」

色々メンバーやプロジェクトの調整をしていると、どうしても思い通りには行かない時も頻繁にめぐってくる…

「明日レコーディングするスタジオがまだ抑えられていない…」

「クライアントとミュージシャンの間に入って揉め事のど真ん中に…」

「仕事上の人間的なトラブルに巻き込まれる」

 

こんな感じの色んな事が同時進行で襲ってくる、そこをどうやって乗り切るのか、周りみんなの利益を守ってあげると案外うまく行くもんです。

 

例えば、簡単な例を言うと、メンバーのスケジュールがガチガチに入っている時に新規や常連さんから問い合わせが来たりする。

「トミーさん、〇〇さんで5曲アレンジお願いできませんか?」

スケジュールをチェックしても5曲なんて全く無理な状況、何せ全国ツアーなんかを抱えていると一年先までスケジュールが入っている状況、、、

 

こんな時、普通は「スケジュール入っていて難しい…」と断る事が定石。

でも無下には断らなかった。

 

「スケジュールがガチガチなんです、、でも調整してみるので時間もらえますか?」

その後メンバー、関係者にはかなり無理なお願いするけど、前後のスケジュールを少しづつずらしてみる、、もちろん各方面に事情を説明、でも各方面にはデメリットが無いように調整するのはもちろんの事だけど、、当然、今まで組んでいたスタジオやミュージシャン等のスケジュールを動かす事になるので、そこはトミーの方で全部出来るように調整してからお願いすることも忘れなかった。これは当たり前ですよね…

 

そして、問い合わせくれた人に連絡する。

 

「調整してみました、5曲は無理でも1曲だったら可能かもしれません」

こう言うと相手の立場も立つ。

というのも恐らく相手の会社ではこんな状況になっていると予想できるから

 

上司「〇〇さんのスケジュール5曲編曲できるか確認してくれ」

担当「スケジュールいっぱいで無理みたいです」

上司「なんだ、アレンジャーのスケジュールも取れないのか?交渉したのか?」

担当「、、、」

 

でも実際は

 

上司「〇〇さんのスケジュール5曲編曲できるか確認してくれ」

担当「スケジュールいっぱいで無理だったのですが、無理やりお願いして一曲だけ

   OK、スケジュールもらいました」

上司「おーそうか、、取れたか、、じゃシングルの表題お願いするか、、」

  「やるじゃないか!お疲れ!!」

担当「ハイ!」

 

ここで相手の状況をちょっとだけ考えてあげるとその先の仕事につながっていく。たぶんこの考え方には色んな意見があると思うけど会社組織の人間というよりフリーランス人間の考え方かもネ、笑い。

 

まだまだ続きます、、次はアーティストさんから沢山パワーをもらった話などを…

こうご期待…

 

今日のお薦めの一曲

今回見出しでも使わせもらった「男の勲章」行ってみますか!やっぱりこのメンバーに登場してもらわないとね!

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トミー爺の還暦いろいろ旅 徒然なるままに

ロックオン入社、最初に紹介されたミュージシャンが超有名なあの人、、

さて若きトミーのドタバタ人生、第四弾です。

人生なかなか上手くいかなく、もがいていたトミー青年にあるディレクターから神のような一言が…「トミーさん、OTくん知っているよね、彼が新しく作家事務所を作るので手伝ってあげてくれない?」そしてトミー青年、何も考えずに「いいですよ」と答えてしまった。

これがその後の人生に大きく舵を切った瞬間、怒涛の人生のスタートでした。

この記事の内容は

トミー青年、株式会社ロックオンカンパニーのスタッフになる

この会社、通称ロックオン、、(ただし、楽器屋さんとは違う作家事務所)に入ったは良いが、そこに所属している人が凄い人たちってことは、その当時全く理解できていなかったトミー青年、、恥ずかしながら…笑い。

【会社の概要】

1988年
創業 レコーディング制作、プロデューサーマネジメントを始める。
同時にロサンジェルスにロックオンアメリカ設立。積極的に海外録音を行う。数多くのメジャーアーティストのレコーディングに参加。

メンバー:大村雅朗清水信之中村哲西平彰、西本明、飯泉俊之
Tsukasa、後、松本晃彦山川恵津子佐藤隆、水島康宏、加入。

1994年
プロダクション業務開始
森俊之 加入 樋口了一 作家加入

1996年
河野圭加入。
1998森俊之とともに宇多田ヒカルのレコーディングに参加

        ー(株)ロックオンカンパニーのサイトより抜粋ー

立ち上げメンバーの凄さが分かったのは会社が出来て少しして、キックオフパーティーをすることに、焼き鳥屋さんの個室を借りて「ガンバロー」ってやったんですが、そこにUSENが流れていて、そこで流れる曲の八割が今ここにいるメンバーの作品だった、、これってすごくないですか?

 

そんな中に駆け出しスタッフとして参加できたわけです。

とはいえその中で一番経験が無かったのもトミー青年だったのは確実、笑い。

 

スタジオ廻りで最初に紹介されたギタリストがあの、、、

右も左もわからないトミー青年、とりあえず社長のOTさんとスタジオ廻りをすることに…そこで色んな人に紹介されたり、色んな会話をするのだけど、最初に紹介されたミュージシャンがギタリストの今剛(こん つよし)さん。あのスタジオミュージシャンのトップクラスの人、レコードのクレジットで何度も見ている人が目の前に…

「コンちゃん、彼、今度一緒にやるトミー、彼は優秀だよ」

「トミー、コンです。よろしくね」

 

確か音響ハウスの1stロビーだった記憶が…その後もクレジットでしか見たことが無いミュージシャンたちと一緒に仕事をすることに、そして後日そんな超一流メンバーの演奏に良いとか好きとか言っている自分がいるって、この時はまだ想像すらできない…


ロックオンはマンションの一室、何も無い一室からスタート

最初に事務所を借りたところが六本木のマンションの一室、まだ机も運び込まれていない状況で、一緒に働くことになったM子ちゃん、彼女はそれまでバリバリのスタジオマネージャーだった、、

何もない床にファックスが入っていた段ボールを机変わりに、電話は床に直置き状態での仕事スタート。

それでどんな仕事をしていたかというと、担当プロデューサーのスケジュール管理とそれに関連する打ち合わせ、その時期に有名アイドルグループのメンバーのソロ活動のレコーディングを請け負っていたのでそのプロダクトマネージメントが主な仕事。

 

それを3人で切り盛りする事になった。

 

参加プロデューサー達ってみんな大一戦で活躍している人たちばかりなので、毎日スタジオワークをしていて、それに関する日程調整やミュージシャン、エンジニア、スタジオブッキングなどを取り仕切る仕事がメイン。

 

そしてスタジオワークって日々状況が変化するので、必ず夜、スタジオに顔出してメンバーと問題ないか?を打ち合わせし、その場で解決できる事は夜中でも動く、あとクライアントと全体流れの確認などする、、当時「ロックオンのスタジオ巡業」と言われていたらしい、、笑い。

当時のレコーディングは13時スタートで大体が深夜25時、26時ころまでやっていたので当然トミー達の帰宅は深夜深い時間が当たり前になっていったんです。

 

若かったからできたのかもしれないですね…

トミー肩書はどうする?好きにして、、じゃ「社長の片腕 トミー染川」で

そうそう、その時の名刺なんだけど社長のOTさんに「トミー、肩書だけど好きにつけて良いよ」と言われて、それまでの名刺が嵐さんの所で「子分」だったので、そこは目立つ事を優先して、、つけたのは

社長の片腕 トミー染川

これは大うけだった、大会社の社長さんからは「トミー、どっちの腕?」なんて名前と顔を覚えてもらうことが早かった。

 

電話でも「社長の片腕、いる?」なんてかかってきたこともあった、、笑い。

 

トミーは西平くん、西本くん、作曲のTsukasaくんの担当に

最初に担当したのは「西平彰くん」「西本明くん」「Tsukasaくん」をメインで、それ以外のメンバーも必要な時にサポートしていくことに…

 

西平くんは、当時売れっ子のプロデューサーでトミーがロックオンに所属した当時名前を知っていたのは彼だけだった、確か当時は平松愛理さん、鈴木祥子さんなどを担当、その後は氷室京介さんのライブ、レコーディングで大活躍の人

 

西本くんはピアニストとして佐野元春ハートランドのメンバーだったけどプロデューサーとして活動する為にバンドをお休み、プロデューサーとしてこれから活動していくスタートの時期。

 

Tsukasaくんは以前から一緒にやっていた流れでロックオンにも加入、のちに鈴里真帆さんのプロデュースで活躍。後日ロックオンは離れてから、ジャニーズの嵐の「時代」の作詞作曲、編曲で大ブレークをした。

プリプロダクションをレコーディングに取り入れたのも革命だった

それと今、当たり前に使われている「プリプロダクション」(通称、プリプロ)を最初にレコーディングに導入したのもロックオンが最初だったと思う。

 

当時のレコーディングってスタジオにミュージシャンを集めてリズム、ベーシックレコーディングをして、その後にギターなどをダビングしていく…というのが主流。


今と違って当時のスタジオ代は最低でも一日40万から50万くらいの費用が掛かっていて、今のようにPCでレコーディングはできなかったのですべてスタジオを使った作業をしなければいけなかった。


トミーが所属していたロックオンってアメリカにもロックオンアメリカという提携会社、現在ネーチャーサウンドリエーターとして活躍しているジョー奥田くんが社長として活動していた。

 

プリプロでメンバーに仕事しやすい環境を作れ

当時の所属メンバーは時間をかけてスタジオワークをしていて、イコール予算との板挟みで我々が必死にクライアントと折衝していて、何とかそれを打開できないか…と考えたのがプリプロダクションの導入。

 

「トミーさん、今回予算があまりなく何とか協力してもらえませんか?」

つまりギャラを安くしてください。という事なのでそれはできないのでこういう提案を

「じゃ、本RECの前にプリプロをさせてください。スタジオ代も安くできるし…」

こんな会話をしながら担当プロデューサーの仕事と環境を守る事に必死…

 

当時のアメリカはプロデューサーやアーティストが自分のスタジオでレコーディングをして必要な時に外部スタジオを使うスタイルが定着して、又は数か月間スタジオをロックアウト貸切って、それで予算を圧縮していた、、その中でプリプロという作業が効果的という事でそれを日本でも導入するように働きかけた時期でした。

 

プリプロはシンセのマニュピレーターとプロデューサーが小さいスタジオでRECする曲のアウトラインを作りこむ、そしてそれをスタジオに持って行ってレコーディングをしていく…一日4~50万かかっていたスタジオ代金が一日10万くらいに圧縮できる…

 

良い方法だと思いませんか?

 

当時、プリプロ?なにそれ?って感じだったけど、徐々に浸透していったのも記憶があるね…

 

まだまだ続きます、、

 

今日のお薦めの一曲

当時、西本くんとジョーと一緒に作り上げた伊豆田洋之くんのアルバム「クラブトランプス」の中の一曲「アルゴ」すごく良い曲、いい風が吹いてくる感じ…

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トミー爺の還暦いろいろ旅 徒然なるままに

2022年の手帳選び、大迷走したあげくほぼ日手帳の「カズン」に決定

さて手帳のシーズンが到来しました。

そうです一年の中で8月、9月って来年の手帳選びで悩みまくる時期なんですよ。

新しく始まる一年へのワクワク感とその相棒になる手帳選びのワクワク感、、

Wワクワク感で手帳フリークにとって、トミー爺にとっても悩ましくも楽しい時期です、笑い。

 

えっ?自分はスマホ派だから手帳なんて買わないよ…なんて声も聞こえますね、、

しかしトミー爺は完全にアナログ手帳派、それも40年以上アナログ手帳を使っている古い親父なんです。

 

そんな手帳選び、迷い迷った手帳選びのグダグダ話を聞いてやって下さいな

 

この記事の内容は

2022年の手帳はほぼ日手帳の「weeks MEGA」に決めてたのに…

今年(2021)は[「ほぼ日手帳」の「weeks」を使っているトミー爺、結構気に入っていて、ただもう少しメモページが欲しいのと色んな事を書きこみたい性分で来年はweeks MEGA(メモページが多い手帳)にしよう!と自分の中では「ほぼ決定」状況だったんです。

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これがweeks とMEGA、チェックしてみてMEGAの方はメモページが倍くらいある。

今年weeksを使ってみて普段使いのデイバックに入れて持ち歩きにはピッタリサイズ、重さもばっちりで自分に合っていて気に入っていたんです。

だから今回、ほぼ日サイトで9月発売に向けてのカウントダウンが始まっても、来年はどんな手帳が出るのかな?


くらいで自分の中ではあんまり盛り上がっていなかったんです、、、ところがですよ、ちょっとしたきっかけで心が乱れ始めたんです。

事の始まりは手帳に色々と書き込んでいるとスケジュール欄がグシャグシャになって来て、「weeks」だとちょっと小さいかな?もう少し整理できれば…と、たったこれだけの、、、小さな気の迷いが台風の目に…

 

weeksはスケジュール欄に書き込みすぎたら見づらくなる…でもA5のカズンだと問題なかったのかな?、、いや重たいでしょ…

なんて自問自答が始まり、さらに何気なく見たカズンの手帳カバー、、

あれ?これも良いかも…あれはどう?いやこっちでしょ、、

 

もう止まりません、、、

よーし、手帳を変えよう!カズン?重たいからavec?でも?

以前、カズンを2年くらい使っていた時期があって、結局重たいって理由で卓上置き手帳と化してその流れで使わなくなった経緯あり、、、それがトラウマで一年を2冊分冊されているavecに気持ちが傾いて行くんです。

カズンというのはA5サイズの手帳で、書くところは十二分にあるけどその分ぶ厚いし重たい、それと内容は同じだけど一年が2冊に分冊されているがavec。

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2冊に分冊されていると便利だと思いません??
そして飽き性のトミー爺としては、一年半ばで新しい2冊目に切り替えられるのもモヂベーションを保つという魅力を感じ始めました。

 

ミナペルホネンという変わった名前のキャンドル、jardinって良い感じ

そのあとに手帳カバーでも悩みまくった。

確かほぼ日サイトで全ラインナップが紹介されたのが8/22だったかな?
気持ち的にはavecの分冊版を買う方向でいたけど、問題がひとつ、メモページが少ないいことに気がつき、、そこでも悩む。

avecってカズンと同じでマンスリー、ウイークリー(バーチカル)、デイリーになっているのでメモする所はあるけど、アイデアを練るための落書き的なページが無い、weeksにはメモページが充実していて重宝したんだけどなぁ、、、

ノートと併用するのがベストかな?
たしかほぼ日手帳カバーって2冊入れ込むことができるし…良いかも…

そう思って手帳カバーをみるとミナぺルホネンのキャンドルとjardin(gray)の二つに目が釘付けに…

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良いと思いません?
この二つは最後まで悩みましたよ…

決戦はロフト!そこで思いもかけない大逆転が、、

ずっと悩み続けて、決まんないのでロフトに行くことにしたんです。

ほぼ日手帳って「ほぼ日サイト」とロフト系列で販売されているんですよ、トミー爺の住んでいるエリアに「二子玉川のロフト」があって、そこでカズン、avecや手帳カバーの現物を見ながら決めることにしたんです。

9/1発売日には仕事の関係でいけなかったので翌日にいざロフトへ。

あったあった、ほぼ日コーナー。

そこで問題発生。

前にちょっと書いたけどavecを使う時に手帳カバーにA5のノートも一緒に入れ込もうと計画していたけど、実際に手に取ってみるとavec+A5ノートとカズン、、、ほぼ同じ重さに感じた…

だったらわざわざ2冊に分けなくてもカズン一冊で良いのは?

そうだそうだ!一気に気持ちがカズンに傾き、思わずカズンを手に取り買い物かごに入れ込んだ、、今まで悩みの日々はなんだったんだ?

それと「5年手帳」という5年間が一冊になっている日記があって、来年から日記をつける事にしていたので購入、これについてはまた書かせてもいますね。

 

という事でカズン、5年手帳、A5のノートを買いましたよ、、

あれ?手帳カバーは?

そうなんです、これについてもまた後日に…笑い。

 

今日のお薦めの一曲

キャロルキングの「You got a friend」このキャロルキングと3人ディーバが歌うこの曲、何回聞いたことか?最高の演奏なのでぜひチェックしてみて

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トミー爺の還暦いろいろ旅 徒然なるままに

若きトミーのまだまだ負け続け人生、、光は見えるのか?

さて若きトミーのドタバタ人生、第三弾です。

人生なかなか上手くいかないですね、、27歳くらいでヤマハを退職、それからPAや舞台監督の仕事をしながら作曲家志望の友人Tくんとデビューを目指した…そこまで書かせてもらいました。

 

この記事の内容は

とにかくガムシャラに突っ走るもダメダメ人生は続く

和田加奈子さんの「夏のミラージュ」でTくんの作曲家デビューはヤマハを退職して2年くらい後の話…それまでは、とにかくガムシャラに働きました。

ヤマハ時代にやっていたPAの仕事、音響スタッフをやりながら作曲家Tくんのプロモーションに明け暮れる毎日が続き、幸いにも仕事の声をかけてくれる仲間もいて助かったんだけど、確かそのころも目標として月30万稼ぐ…これを目標にしていた記憶がありますよ。

確かあの時代フリーのPAとか舞台監督のチーフクラスのギャラが本番一本5万くらいだったかな…でもトミー青年、下っ端クラスなので本番1~2万くらい。

下っ端クラスのトミー、通年通して仕事があるわけではないのでアルバイトを掛け持ちして日々食いつないでいたって感じでした。
 

そうそうそんな時にあの人に相談したんです。 

 

染さんお前顔も濃いから名前も濃くしなよ…トミー染川の誕生

ここで登場するのが横浜銀蝿の嵐さん、そのころの銀蝿って飛ぶ鳥落していて、日吉をやめてからは年に2回くらい事務所に遊びに行く感じの付き合いでした。

 

まったくの素人マネージャーがレコード会社に電話しても話なんか聞いてもらえない…相手にされない日々が続きました。

確かデモを郵送する時に封筒にデカく「ヒットする曲在中」って書いて送ったこともある、笑い。

 

そのくらい目立つために何でもやった、、、
 

しかしそれも限界があり、そこで嵐さんに相談したら「だったら染さん、俺の所で働いて人脈増やしてみれば…」と言ってくれて、嵐さんの事務所のスタッフとしても働くようになったんです。


そのころ何でもやっていたから二股でなく六股くらいの仕事量だったかな?

ある日嵐さんと打ち合わせをしていて

「俺の所のスタッフでパンチってやつがいて…」みたいな話になり、どうやらそのパンチさんは派手な名前にしたら仕事が広がったらしい…
 

「染さんも顔濃いから、名前も濃くしなよ…」

下の名前聞かれて「トミカズ」って答えたら「ソメカワトミカズ」どっちが苗字か名前かわからない…みたいな話で一緒に名前を考えてくれたんです。

 

そこで誕生したのが「トミー染川」。
もう一つの候補が「サムソン染川」、、でもボツに…笑い

そして名刺を作る話になり、肩書が必要だな…という事で、嵐さん曰く「俺が社長、トミーがそのアシスタントだろ、、俺が親分で、トミーは・・・・・」

 

そしてできた名刺が
 

子分 トミー染川


ということになった、案の定、名刺交換ではその肩書、名前で盛り上がる…そしてびっくりしたのが今まで相手にされなかった業界の人たちも
 

嵐さんの事務所の子分、トミー染川です。
 

って言ったら「どうもどうも…」みたいに今までの仕打ちは何だったんだ…って感じで接することが出来るようになったんですよ。

 

事務所の肩書ってすごいですね 。

この時は肩書きがある事でメリット感じたけど、そらから10数年後に逆の経験もする、、それは後で紹介しますね、、

 

トミーの年収120万、税務署スタッフから「どうやって暮らしているの?」

嵐さんの事務所では人生初の「有線放送所」回りをやった、事務所所属のバンド「ストリートダンサー」というちょっとビートルズっぽいテイストのバンドがいて、その新曲を有線放送所に行ってレコードをかけてくれるように営業する仕事をしたな…

 

関東近郊にある放送所は全部回った…放送所には有線嬢がいて営業に行くとその場でかけてくれる、、そのうちの何回かは、リスナーさんから「今の曲は誰のですか?」なんて問い合わせが来たりする、、、うれしかったね!


嵐さんの所で半年くらい丁稚奉公をしながら作曲家Tくんの営業も並行していった、二人の頑張りもあって和田加奈子さんのCDで少しづつ採用され始め結構成果が出てきた時期に、、ある出来事があり嵐さんの所を退所することに。

当時、トミーも結婚して家庭を持つようになり、余計にお父さん頑張らなくては…と言う事で音楽の仕事、アルバイトなど複数こなしながら頑張っていたけど、最初は本当に収入無くて、確か年収120万くらいだったかな、、夢ばっかり追っていたからね…

税金の申告(確定申告)で税務署のスタッフからこんな質問が

「トミーさんはどうやって暮らしているんですか?」
「ハイ、女房に食わせてもらっています。」
「頑張ってくださいね」 

 
今考えるとよくあんな時期に結婚したよな…笑いと思ってしまいますよ。

そんな時期に母親の具合が悪くなり、イコール今以上に頑張って働かなくてはいけなくなったんですよ。

嵐さんに相談したら「わかった、御袋さん大事にしろよ」って背中を押してくれたのが凄くうれしかったのを思い出します。


その後母親は無事に回復し元気になった、、しかし、トミー青年は相変わらず超低空飛行の毎日、、トホホ、、、

 

そうそう、丁度この頃だったかな?カミさんとファミレスで食事してたら日吉時代のバンド仲間が入ってきた。

 

向かうもこっちに気がついてくれて「久しぶり、今どうしてる?」って聞いたら

「尾崎やってる」という答えで、てっきり尾崎紀世彦さんのことだと思ったけど勘違いで尾崎豊さんのことだった、笑い。

 

後で知ったのだけど彼達が尾崎さんのバンド「ハートオブクラクション」だった。

 

トミー爺もその後に尾崎さんの最後のツアーとアルバムで仕事させてもらうことになるなんて、この時は夢にも思って無かった、、その話はどこかで紹介しなくちゃね

 

トミー、〇〇くんが事務所を作ったんだけど手伝ってあげて

そんな中、世の中上手くできていますよね、、仕事仲間のディレクターからあるお誘いが…


「トミーさん、〇〇くんが独立して作家事務所を作ったんだけど手伝ってあげて」

その時、お金になるんだったら何でもやってやろう!という姿勢のトミー青年、何も考えずに「いいですよ!」と即答。

家に帰ってからカミさんに事務所に誘われた…って話したら

「よかったね、ところで給料なの?いくらもらえるの?」

そういえば、そんな話は一切なく、固定給もらえるんだったら今よりも良いか?

くらいにしか思っていなかったな、、、のんびりした性格ですね。

今まで負け続けていたトミー青年がここから巻き返しに転じる、、続きはこの次に、、

 

今日のお薦めの一曲

実はトミー爺の音楽観が一変した曲がこれ!「宇宙のファンタジー」このバンドのライブを武道館に見に行って「ショー、エンターテインメント」としての音楽の重要性に気がつかせてくれた曲です。


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お薦めの一枚

作曲家だったら必聴のアルバム。今から40年前の音楽、今聞いても全然古くない。このグループのリズムグルーブが凄い!どうやったらこんなグルーブが出せるのか?研究してみてください。 

アナログ盤もぜひ聞いてみるとCDと全く違っている音の世界を堪能できるかも 

 

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若きトミーの人生航路2 もう上なんか見る気力が無いくらい負け続け

横浜市日吉にある「ヤマハ日吉センター」でアルバイトする事になったトミー少年、約7年ほどここで働くことに、、、そして、ここで将来につながる色んな人たちと出会い色んな経験をすることになったんです。

 

この記事の内容は


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こいつらには勝てないわ、、俺はスタッフとして生きていく

さてヤマハでどんな仕事をしていたかというと5部屋あるリハスタジオの運営管理。

エレクトーン教室の建物内楽器移動、

研修ホール収容は200名。会議用スペースに簡単なステージとPA装置常設、そんな総合施設のスタッフとして働いていました。
 

当時ヤマハポピュラーソングコンテスト(略してポプコン)やバンドコンテストのEAST WEST(関東甲信越エリア)を開催していて、日吉センターは横浜の中心的な存在。プラス周りに無料駐車場もありミュージシャンが集まってくる拠点。

 

実は、トミー少年、「俺はやれる!」そこそこ思っていたのですが日吉に集まってくる人たちはとんでもなくレベルが高かった、、、

 

まず友人に連れられて初めて日吉センターに行ったときに、ホールで高校生バンドがライブをやっていてボーカルもうまかったけどギターの少年が信じられないくらいのテクニックだったんですよ、、

 

「うわー、なにこれ!!」って感じで、東京では高校生でもこんなレベルなんだ、、

ミュージシャンの夢あきらめて良かった…本当に真剣にそう思いました。

 

それもそのはずそれから10数年後にその時のギター少年と再会、なんと彼はその後世界遺産のテーマを担当する鳥山雄二くんだったんです。

 

リハスタ3時間予約して4時間練習する謎のバンド

日吉のリハスタって1時間単位の貸し出しで、前の利用者が終わってから1時間空けて次の利用者に貸し出す。
 

そんなシステムで、ある時から週2回くらい午前中3時間予約するバンドがあったんです。彼らは日吉のシステムを良く知っていて、というか研究していて、予約開始が朝10時からだったのですが必ず11時から14時まで予約するんです。

そして朝10時ころ来て、「染さん、スタジオ空いてる、、じゃ荷物を入れてもOK?」なんて言いながら10時30分ころにスタジオに入っていく、そして14時30分まで練習する、受付スタッフも見逃していたんですがなんと計画的に練習していたんですよね、、そのバンドは4人編成で雰囲気的に不良っぽい風体、でも話すと良いやつ…
 

そしてある日「染さん、俺たちデビュー決まったから…」と言ってきたので「おめでとう!」と言ったはいいが、、、ホントかな?80%は疑っていました。
 

ところがある日、いつもの様に来た彼らの姿が白いドカン、革ジャン、サングラスで現れたんです。街で出会ったら絶対目をそらす風体ですよね、、そう彼らが横浜銀蝿だったんですね、、イヤービックリしました。

 

それから現在に至るまで仲良くさせてもらっています。

 

そうそう、あとで書かせてもらいますがトミーの「トミー」って銀蝿の嵐さんにつけてもらったんですよ、、

 

きゅーぱんとトラバツわらの犬…深夜ミーティングは井田デ

あの頃日吉に来ていたミュージシャン、仕事始めた頃は「わらの犬」というフォーク4人バンドがいて衝撃でした。

彼らの作る曲、アマチュアが作る曲ってそれなり…だと思っていたトミー少年、ところが彼らの作る曲ってプロのそれと変わりないくらいいい曲ばっかりだったんです。

 

本当にこれが東京の実力か!と思いました。
 

あと「きゅーてぃーぱんちょす」というバンドがいて彼らもすごかった、演奏は上手かったし曲もすごくよかった…彼らは後に「杉山清貴オメガトライブ」として大成功するのですが、あの頃はみんな目がギラギラしていましたよ、、トミー青年も含めてね(いつの間にか少年から青年に成長!笑い)

 

PA、RECエンジニア、舞台監督、企画構成、色々やったけど上手くいかない

さてトミー青年としては色んな仕事をやりました。しかし、何をやっても仲間に先を越されて、追い抜かされてしまう、、早い話、すべて中途半端。

 

自分自身、本当に悩みました、日吉の中ではある程度できるのですが、しかし、プロとして活動できるレベルでは自分としても無いと思うし、またヤマハの社員になる話も一向にない、、周りはどんどんプロデビューしているのに自分だけ取り残されて行く感じでしたよ、、本当に

そんな時に一途の希望が、、、
あるバンドがプロデビューの手助けしてくれないか…という話が、、彼らと一緒にプロへの階段を上がって行く…これは唯一自分のスタイルに合っている感じが、いやその道しかなかったかな?自分の進む道としては…

そうすると今まで中途半端と思っていたPAも舞台監督の仕事も頑張ってやれるようになっていって、でも本業はバンドデビューの手助けの仕事…みたいに割り切れるようになったんです。

そのバンドがTRY-Xというバンド、今のトミー爺の会社の名前になっている。

…で、あの当時TMネットワークが出てくる前、打ち込み中心でそれに加えて、ドラム、ベース、ギター、キーボード、パーカッション、ボーカル、シンセのマニュピレーター、というメンバーがいる、斬新な編成でした。

デビューの夢は破れて途方に暮れるトミー青年、作曲家のマネージャーに

TRY-X、結構いいところまで行ったんです、レコードメーカーの最終オーディションまで行ったけど、結局デビューかなわず…はっきり言って目の前真っ暗ですよ。

そしてバンド解散。

もう崖っぷちです、、夢破れてそして何もなくなった…って感じでした。


ただ、バンドのリーダー、T君が作曲家としてやっていきたい…と言う事で、その手伝うことにしました。というか、その選択肢しか無かったんです、上を向いて、前向きにやれることが 、、
 

やれることは全部やってみた…が結果が出せない日々が続く

まずはバンドで最後にお世話になったプロデューサーに相談、、しかし、運悪くそのプロデューサーが制作から宣伝に移動になった…どこまでついていないのか?

そして新しいプロデューサーを紹介してもらい、その人に会いに行きました。

 

おっかなびっくりですよ、デモを聞かせていると一言

「彼、T君、才能あるね…今、稲垣くんの曲集めているから何曲か聞かせて…」

 

と言ってくれたんです。


「彼、才能あるね…」この一言に大感激のトミー青年。

そうそう、稲垣くんというのは稲垣潤一さんの事でそのプロデューサーだったんです。

 

そこから二人で必死に食い下がりました。

しかし、それでもダメで、採用されず、、本当に挫折です。

作曲のT君も、トミー青年ももう立ち上がれないくらいにナイアガラの滝の上から真っ逆さまです、、

でもある日電話が鳴り、チャンスが訪れたんですよ、、

 

「T君って最近忙しい?アニメを歌う女性歌手がいるんだけど曲書いてみない…」

これは人伝えで面白い作曲家がいるってある事務所に噂が流れ、そしてその関係ディレクターから連絡が来たのです。

 

そしてついに作曲デビューがそれがアニメ「きまぐれオレンジロード」のエンディング曲「夏のミラージュ」。


www.youtube.com

 

夏のミラージュ

作詞 湯川れい子

作曲 Tsukasa

編曲 鷺巣詩郎

歌  和田加奈子

 

うれしかった…本当に…

 

これから色んな縁がつながっていくことに

 

こうご期待

 

トミーが推薦する今日の一曲

という事で今回は和田加奈子特集という事でこの3アイテム。非常に上質なポップスだと思います。ぜひ聞いてみてください。

 

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若きトミーのジグザグ人生航路~ヤマハ編~

久しぶりのブログです(いつもですよね、、反省)

さて今回は「若きトミーのジグザグ人生航路~ヤマハ編~」と称して、トミー爺がどんなドタバタ人生を経て今に至るか?

 

ブログに残すほどの話ではないかもしれませんが、ちょっと文章に残しておきたくなってしまったので書かせてもらいます。

 

このブログの内容は

 音楽少年19歳で北海道から26時間かけての上京編

1974年ころだったかなクラシックのレコーディングエンジニアになりたかったトミー少年、どうせ目指すんだったら東京の日大芸術学部に入りたい…と思い、必死に勉強するも見事1浪。北海道で一人で勉強していても合格できない…と一念発起。

 

両親に頼んで東京の予備校に通うことにしたんです。

その当時飛行機なんて高くて乗れないので、当然電車移動。

今だったら旭川空港から一飛びで東京行けるのですが、その当時は特急移動、それも時間がかかる、、たしか、、

旭川~札幌経由で函館へ  9時間

函館~青森 青函連絡船  5時間弱

青森~上野        12時間

 

凄いでしょ、、それも列車はリクライニング無のボックスシート、約一日座っているんですよ。

 

おまけに3月くらいの移動だったので雪で列車が平気で2~3時間くらい遅れる、そうすると函館で連絡船のれない、当然、青森で乗る予定の列車にも乗れない…

 

今だったら考えられないですよね

 

2浪したトミー少年、スナックのママの一言で専門学校へ

初めての東京暮らし、確か調布の深大寺にアパートを借りて一人暮らしのスタート。

そこから予備校に一年間通いました。

 

一年間予備校で勉強したけど、日芸の壁は高く、結局その年も落ちてしまう、プラス、日芸しか受けなかった、滑り止めなんて考えられなかったんです。

 

エンジニアになる為には日芸受けるしか道はない…と思い込んでいたから3浪するしかない…そんなふうに思い込んでいたトミー少年に神様がささやきかけてくれたんです。

日大芸術学部って江古田って街にあって、受験した日にふらっと入ったスナック。

ここがトミー少年の人生を変えた場所、一言なんです。

 

「お兄ちゃん、日大芸術学部でてもだめだよ…」

 

確かこんな風な事だったと思う、その一言を聞いてなんか吹っ切れて、そうか別の道でエンジニアになろう…

 

なんか漠然とそう思い込んでしまった。

人生、方向転換する時ってそんな感じなんですね…

 

そして吹っ切れたトミー少年、上野にある放送系の専門学校に入る事に、これがトミー少年の人生を決定つける行動だったんです。

 

初めてのレコーディング実習はフェードイン、フェードアウト

そして入学したのが千代田テレビ技術学校「放送学科」というところ。

放送学科で音楽レコーディングについて勉強しようとして入ったけど、実際にやったのはフェードイン、フェードアウトの実習だけ。

 

でもあの当時のトミー少年には革命的な実習でしたよ、、、なんせ初めて音楽をミキシング?したんですもの…笑い。

 

そんな専門学校だったけど唯一良かったのは同級生、仲間。

 

当然、仲の良いグループが出来て、その中に今でも仲良くしてもらっている友達、彼はヤマハ関係のバイトをしていたんです。

 

トミー少年、初めての音楽のバイトは武道館

人生を振り返ってみると本当に友人、仲間に恵まれていると思いましたよ。

 

専門学校(2年制)の1年の秋に声がかかったんです。

 

「染めさん、武道館で仕事があるんだけどやらない…」

 

武道館ですよ、、あの…

 

当時のヤマハポプコンポピュラーソングコンテストの略)をやっていて、その最終段階が世界歌謡祭でそれの仕事があるっていうんです。

 

確か交通費しか出なかったと思うけど、お金なんかどうでも良いですよ。

音楽の仕事ができれば…そこでスタッフさんと仲良くなって…なんて考えていました。

 

その仕事というのが開場前に座席にチラシを置く仕事、そして開場になったらお客さんの席案内でした。

 

音楽の仕事では無かったのですが、トミー大満足でした。

ポプコンのトレーナーをもらって、歌謡祭のパンフレットももらった。

 

そうそう、その時のグランプリが中島みゆきさんの「時代」でした。
この曲はあとでリアレンジされたやつ 

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 こちらがオリジナルのCDバージョン 

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兎にも角にも この曲が世に出る瞬間を目撃したんです。

それ以外にもすごい人たちが、チャゲ&飛鳥八神純子因幡晃、サンディ、松崎しげる、、その人たちのリハーサル、本番を見ることが出来た。

 

中でもサンディは衝撃だった、あんなに歌が上手い人って世の中に居たんだってね

そこから5~6年後に再開するのですが、まだまだ先の話です。

染さん、日吉に新しくヤマハのセンターができるから来ない

確か1年生の終わりくらいだったかな?

 

ヤマハでバイトしていた仲間が「染さん、日吉にヤマハができるんだけど手伝ってくれない」って誘ってくれたんです。

 

神奈川県の横浜にある日吉という街、日吉と言えば慶應義塾大学がある所で有名。

 

そこにヤマハの音楽センターが出来て、エレクトーン教室、幼児科、バンド練習用のスタジオ、ポプコン用の録音スタジオ、小ホールがある施設でした。

 

そこのバンド練習スタジオを中心とした音楽センター全般での仕事。

 

断る理由ってなかったんで「いいよ!」って軽く返事をしたんだけど、その返事がその後の人生を変えるなんて今は夢にも思っていないトミー少年でした。

 

【予告】、、笑い。

 

ヤマハのセンターで働くことになったトミー少年。

のちの音楽シーンを塗り替えるような人たちと親交を持つことになるんです。

 

そしてこのへんから紆余曲折の人生スタートです。

 

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