旅日記 還暦親父の諸国漫遊記

人生は旅!音楽も旅!音楽一筋40年トミー爺の旅日記。"音楽" "グルメ" "ラーメン" "旅行" "ダイエット"などを独断と偏見の哀愁目線でお伝えするブログです。

トミー染川のプロフィール

                                     トミー染川のプロフィール

名前   トミー 染川

生年月日   1954年10月

出身地    北海道 小樽市

【会社概要】

〒150-0002

東京都渋谷区渋谷3-5-16 渋谷三丁目スクエアビル2F

有限会社トライエックスミュージック社 代表 トミー染川

 

【会社web】

try-xmusic.jp

 

【トミー染川の略歴】

 

  • 1954  北海道小樽市に生まれる。
  • 1959 北海道旭川市へ転居。
  • 1972 旭川南高等学校卒業。
  • 1974 千代田テレビ技術学校放送学科入学。
  • 1977 千代田テレビ技術学校卒業。
  • 1978 在学中にヤマハ日吉センター入社
  • 1986 ヤマハ退社。フリーのPA、舞台監督として活動。
  • 1987 ユタカプロダクション入社。
  • 1988 ユタカプロダクション退社
  • 同年 株式会社ロックオンカンパニー入社。
  • 1998 音楽家育成システム「Song Bank」を立ち上げる。
  • 1999 ロックオンカンパニーを退社。
  • 2000 (有)トゥエンティーレーベルを相模原市に立ち上げる。
  • 2001 法人化準備の為(有)トゥエンティーレーベルを退社。
  • 同年 個人事業として屋号「ザソングバンクシステムズ」「トライエックスミュージック」として活動開始。
  • 2003 有限会社トライエックスミュージック社を設立。
  • 2006 8月に事業所を川崎市から東京都渋谷区に移転。

 

 

この後はトミー爺の生い立ちや人生波乱万丈の出来事を紹介、、

ちょっと長いので時間のある時ににでもチェックしてみて下さい。

 

 

 旭川時代

幼少時代 

5歳の時に両親の仕事の為、小樽市から旭川市に引っ越し曙町に居住。

引っ越し当初は孤独な少年、友達も出来ず、一人遊びが大好きな少年だったが、すぐ仲間が出来き悪ガキに変身。野原を野獣のように駆け回って遊び、雪が降ったら雪で要塞を作り雪玉を凍らせてそれを使った雪合戦が得意だった。

 

音楽に目覚める

小学校4年生の時にビートルズが来日、GSブーム(グループサウンズブーム)が到来する。小学6年生の卒業イベントでクラスでベンチャーズ当て振り芸を披露することに。12名くらい選抜され、掃除用のホーキに画用紙でエレキギターの絵を書き、それを張って全校生徒の前で当て振りデビュー。

 

ちなみにギター担当は6人くらい、ベースは一人もいなかった 笑い

 この体験以降、なぜか自分は音楽が大好きだ、、と思い込んでしまった。

 

吹奏楽部に入部 

無事に小学校を卒業、中学に入学。吹奏楽部に入部する事になる。

 

実際はトランペットを希望したが空が無かったためにトロンボーンチームに入る事に。いつしかトロンボーンチームのリーダーにまで上り詰める、、と言っても2人だけだったけど…笑い

 

バンドに目覚める

吹奏楽をやっていたことで楽譜の読みができ、当時、流行り始めたバンドに、のめり込むようになった。両親に頼み込んでクラシックギターを買ってもらい譜面が読める事をいいことに楽器もそこそこ上達した。

 

日曜となれば、仲間と友人の家に集まりバンド練習をするようにもなった、、この当時、今のような練習できるスタジオなんて無く、ドラムやギターを家の前の広場に出して家から電源コードをつなげて、原っぱが練習場、あの当時のご近所さま、、雑音ご迷惑かけました。

 

練習中に「うるさーい、やめろー」と何回も怒鳴られた記憶が、、笑い

 

もちろん楽器移動はリアカー移動。そこにドラムやアンプを乗せ、人力で1時間かけて友人宅まで運び、家の中で練習に明け暮れる。

 

アンプと言っても玩具みたいなアンプやテープレコーダーにギターを無理やり差し込み、音を増幅して代用していた。

 

この頃に友人宅のオープンテープレコーダーを使って多重録音にもチャレンジ、、「帰って来たヨッパライ」にのめり込む?

 

高校時代

中学を卒業後、旭川南高等学校に入学(私立時代)迷わず吹奏楽部に入部高学年になり自分の進路を考えるようになった。

  • プロのトロンボーン奏者になる
  • プロの録音エンジニアになる
  • それがだめだったら音楽関係の仕事がしたい

 結局「自分には音楽の道しかない」と勝手に思い込み、東京に行く事を決断。この時の無謀な決断が、なんの根拠もない田舎少年の決断?思い込みが今だに続いているって奇跡のような人生かも。

まだその途中ですけどね、、

 

19歳で単身東京に 

東京で大学受験にトライするが失敗。受験の日、お昼休みに入ったスナックでピラフを食べている時にスナックのママが言った言葉で人生が変わる。

 

「お兄ちゃんね、、〇〇大学を出ても何にもならないよ…」

 

そうか大学出てもダメなんだ…だったら手っ取り早く専門学校…と思って上野にあった千代田テレビ学校に入学。

運命を変えたヤマハ時代

千代田の同級生のOさんとMくんに声をかけられた。

 「そめさん、日吉のヤマハ、人が足りないんだけど来ない?」

 この一言でヤマハでアルバイトをする事に。

 

在学中も企業実習という形で1年ヤマハで働き無事に千代田を卒業。

本格的に契約社員としてヤマハで働く事に、実際に此処での7年間がその後の人生を決める事に。 

 

ガキトミーの当時の仕事は

  • スタジオ運営企画
  • 日吉センター主催のアマチュアコンサートの運営企画
  • マチュア楽家の育成業務を行う。

 こんな感じ

ヤマハ日吉センター時代

さてさて、ガキトミーが働いていた当時のヤマハはポピュラーコンテスト(ポプコン)、EAST WEST(関東エリア)などのコンテストに力を入れていて、自分が入った日吉センターは関東甲信越地区の中心的なセンター。

 

リハスタジオ5室、関東全エリアのポプコン優秀な参加者のレコーディングを一挙に行っていたレコーディングスタジオがあり。

 

また、エレクトーンやピアノのトッププレーヤーが練習やワークショップを行うホール、とにかく今までの人生が逆転したかのような環境だったんですよ。

 

その当時の音楽仲間がトミー爺の人生を決めたと言っても大げさではないかも…

 

当時一緒につるんでいたメンバーは「杉山清貴オメガトライブの前身バンド」「結成当時の横浜銀蝿」「若き日の千住明くん」「エイプリルバンド、のちの尾崎豊のバンド(ハート オブ クラクション)」「音楽プロデュ―サーの斎藤ネコくん」「のちに糸井重里さんらのゲームソフト、マザーに参加したゲーム音楽の巨匠?酒井省吾くん」らが日吉を舞台に切磋琢磨していた時代。

 

そして何と言っても最初に日吉に行って度肝を抜かれたのがまだデビュー前の渡辺真知子さんの歌を聞いた事。とにかくこの時代の人脈がのちの宝物。

 

ヤマハ退社、フリーランス 

ヤマハ時代のガキトミーは色んな事にチャレンジさせてもらった。

けど、その道のプロにはなれずに悶々とした時代、、そんな時にのちの会社名にもなったバンド「TRY-X」に出合う。

 

彼たちの才能に衝撃をうけ、彼らのバンドマネージャーとして活動も始める。

 

その流れもあってこのままではいけない…と思い1985年  ヤマハ退社。

TRY-Xのマネージャーとして活動、生きる為にフリーのPA、舞台監督としても活動。ヤマハエレクトーン関係のコンサート、鳥塚しげきさん(ワイルドワンズ)のファミリーコンサートなどの制作を行う。

 

トミー染川の誕生 

とはいえ、全く無名のマネージャーが何をすることも出来ず、日吉時代に親交を持った横浜銀蠅の嵐さんに相談。

 

「そめさん、お前は顔が濃いから名前も濃くした方が良い」

 

というアドバイスで、ここに「トミー染川」が誕生。

 

人脈を広げる為に横浜銀蠅の事務所に社長のアシスタントとして入社。

そして社長のアシスタントという肩書が「子分」(社長が親分だからアシスタントは子分だという理由で)

 

ここに「子分 トミー染川」が誕生する。

 

しかしTRY-Xは解散、リーダーのTsukasaくんが作曲家になるという事で彼のマネージャーとしても活動始める。

 

株式会社ロックオンカンパニー入社 

ユタカプロダクションでの仕事修行中、母が一時的な記憶喪失になる。

その後快復するも、それをきっかけにユタカプロを退社 。あるレコード会社のディレクターさんの紹介で新しく出来るアレンジャーの事務所、 ロックオンカンパニー(以下、ロックオン)に参加することに。

 

このように文章で書くと「たった数行」の話が、トミー爺にとって人生を変える数行になった。

 

当時のロックオンがマネージメントをしていた編曲家、エンジニアたちは当時の音楽シーンをつくりあげていた人たち。

 

そんな事を知らないトミー爺はついていくだけで必死。

 

社長と一緒に編曲家が仕事をしているスタジオに行くと、レコードクレジットでしか知らない日本のトップミュージシャンが居て、アーティストと一緒に音楽の話をしているトミー爺。

 

以前はレコード会社のスタッフを必死に捕まえようとしていた人間が、逆にレコード会社のスタッフから追いかけられる立場に…

  

当時の担当メンバー

  • 西平彰くん 彼は新進気鋭の(keyboard,編曲家)担当アーティストは氷室京介さん、平松絵里さん、槇原敬之さん、鶴久政治さんetc.
  • 西本明くん 彼も新進気鋭の(keyboard,編曲家)担当アーティストは尾崎豊さん、佐野元春さん、稲垣潤一さんetc.
  • 水島康宏くん(作曲家) 高橋真梨子さん『ごめんね』etc.
  • Tsukasaくん(作曲家) 後日、嵐さんの「時代」詞、作編曲担当
  •  関根安里くん(作、編曲家)中森明菜さんのTATOOの作編曲
  • 佐藤ありすさん(作詞家)CHU CHU TRAINの作詞
  • 澤地隆さん(作詞家)チャゲ&飛鳥さんなどの作詞

 

このメンバーを一人で担当することに、結構、大変で、これだけ考えたら波乱万丈の人生でしょ、、まだまだ続きます。

 

Song Bank誕生 

http://www.songbank.jp/index.html

 

作家のマネージメントをしていると新人作家さんのデモを聞くケースが増えてきたある日、ある作家さんから言われたひとことがその後のトミー爺の人生を変える事に

 

「トミーさんのアドバイス、物凄く分かりやすい…」

 

その時は「そうなんだ…」とただ感じていたのですが、その後、新人作家さんから「ロックオンに所属させてください…」という要望が増えてきた、、、けど、専属作家制度しかなかった当時の作家事務所、ロックオンも当然そうだったので、お断りするしかない日々が続く。

 

ある日、閃いたのですよ。

 

「専属作家さんとして個人と契約は出来ないけど、その作品と契約する仕組みが作れないか?」

 

これだったら個人を専属契約の縛りで拘束する事はないし、音楽業界は新人作家を求められている現状、新人作家を世に送り出す手伝いが出来るかも…

 

トミー爺、一人で考えました。

 

そしてやっと考え出したのが「Song Bankシステム」だったのです。

 

お蔭様で2018年7月現在、44名、115作品がCDなどで作詞家・作曲家デビューを支援することが出来ました。

 

まだまだ進化続けて行かねば…と思っています。

 

 

トミー爺の今はどうしている?

  • 1999 ロックオンカンパニーを退社。
  • 2000 (有)トゥエンティーレーベルを相模原市に立ち上げる。
  • 2001 法人化準備の為(有)トゥエンティーレーベルを退社。
  • 同年 個人事業として屋号「ザソングバンクシステムズ」「トライエックスミュージック」として活動開始。
  • 2003 有限会社トライエックスミュージック社を設立。
  • 2006 8月に事業所を川崎市から東京都渋谷区に移転。

などなど、これだけ見ても波瀾万丈の人生。

 

現在もしぶとく頑張っていますよ。

  • 作曲家のマネージメント
    AKB48グループや高橋真梨子さんへの楽曲提供。
  • 山口出身のちひろさんのCD制作、ライブ制作のお手伝い
    CD「メッセージ」「Reborn」「愛のメッセージ」
    ライブ「15周年ライブ」
  • 各地での作詞、作曲勉強会、ワークショップの開催
    東京、大阪、札幌、名古屋、福岡、広島
  • 専門学校の講師
  • うたまっぷ作詞スクールの添削や運営のお手伝い

トミー爺の人生航路、まだまだ続きます。

こうご期待!